町散歩
兵庫県丹波市柏原町
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柏原と書いて「かいばら」と読みます。大阪にも岐阜にも柏原と書くところがあって、「かしわら」とか「かしわばら」と読むと思うのですが、ここはまさかまさかの「かいばら」です。ここに古民家を所有しておられるお友だちがいて、その民家で「丹波布展」を開催されるというので民芸運動の柳宗悦も興味を持ったという丹波布を見がてら、柏原町散歩に出かけました。京都から新快速で新大阪へ出て、新大阪からJR福知山線で城之崎温泉行きの特急「こうのとり」に乗れば待ち時間含めて2時間8分で到着しました。
「丹波布展」で巾着を買いました。中々渋いものです。私は巾着好きで普段自分で作ったものを持って歩いています。布を買ってと思ったのですが、10cm千円という織物でしたので手が出ませんでした。それならばと出来上がった作品を買いました。
この町に丹波市観光協会柏原支部があって、歴史ある町ですから観光での町おこしを実行中のようです。昨年2015年12月に発行された新聞があったのですが、その新聞には「織田家18代当主」が「織田まつり」に出演したことが書かれていました。
(1)織田氏の城下町
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柏原藩陣屋跡 | 長屋門 |
柏原藩織田家は、前期(1598〜1650信長の実弟信包が初代で三代続いた)と後期(1695〜1871織田信長の子信雄の子孫信休初代で10代明治4年の廃藩置県まで続いた)に別れます。
陣屋というのは後期初代が1714年に造営したもので、当時は表御殿、中御殿、奥御殿などがあったようですが、現存するのは表御殿の一部で、1820年に再建されました。幕末には敷地内に藩校もあったようです。明治以降は、この陣屋が小学校として使用された歴史があるようです。
陣屋の隣に崇広小学校があります。外観が凝っていて、公立小学校によくある安普請ではないのです。陣屋裏を歩いていく子ども達が見えました。おそらく後ろのコンクリートは小学校の施設ではないかと思われます。お金かけた小学校です。崇広という名は藩校「崇広館」からの命名。明治6年開校。
(2)二つの肖像
陣屋前に二つの肖像がありました。1つは織田信包像、もう一つは田ステ女像です。
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信包については、右の説明を読んでいただければと思います。
田ステ女(1634〜1698)については少し説明がいるかと思われます。「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」という俳句を6歳の時に詠んだという女流俳人です。確かに6歳の時に詠んだこの句は有名ですが、後を知りません。ステ女の「女」は名前の一部ではなく女流歌人に付ける接尾辞だそうです。柏原に生まれたステ女を称えて、「田ステ女記念館」「田ステ女公園」もありました。童女姿で肖像にされるというのも、最初の句があまりに有名すぎるからでしょうか。
気骨のあるニュースキャスターで参議院議員だった田英夫氏は子孫だそうです。
(3)3つの神社
柏原は織田氏の城下町になる前は、八幡宮の門前町として栄えていたそうです。この八幡宮は、京都石清水八幡宮の別宮として平安時代万寿元年(1024)創建のです。私は雨も降っていたし、山の上まで時間もかかりそうだったので社前で失礼したのですが、複合社殿(本殿と拝殿)は安土桃山時代のものだそうで重文に指定されています。通りから江戸後期再建の三重塔の双輪が見えます。神仏習合の歴史があるのかもしれません。
右の織田神社は織田信勝を祀っています。信雄ではありません。同じ読み方ですが、信勝は前期織田家の三代目で8才で世継ぎとなり、28才で亡くなり、お家断絶となったそうです。母親が邸跡に建てたものを現在地に移したとのことです。
建勲神社は京都船岡山にある神社と同じく、明治時代になって信長の勤皇敬神を称えて造られた神社で、、ここ柏原の建勲神社も明治時代に創建されています。「丹波布展」の看板が電柱にあります。このすぐ近くにお知り合い宅がありました。
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織田神社 | 柏原八幡宮 | 建勲神社 |
(4)太鼓やぐらと木の根橋
柏原八幡宮社前に織田神社と木の根橋がありました。名前の通り、木の根が川を渡っています。この川は幅8mあるそうで、奥村川と言うそうです。この木はケヤキです。「樹齢10000年とも推定される」と微妙な書き方がしてありましたが、立派な大木です。当然のことながら、この木の上を渡るのではなく、その向こうに見える朱色の橋を渡ります。
太鼓やぐらは藩政時代「大手門付近にあった」と書いてあったのですが、その大手門がどこにあったのか分からないので移転されたのかどうか?です。三層だそうで、最上階に「つつじ太鼓」という大太鼓があります。時報や警報に使われていました。火事の時は3点打、山火事と出水は2点打だったそうです。藩主が参勤交代から帰ってきたときにも打たれたそうです。小学校ができてからは、児童の登校合図にも使われたそうです。
駅前に、この太鼓やぐらと同じようなものが相当なお金をかけて造られたことが記されていました。最上階には人形と太鼓が見えました。時間が来ればあの人形が太鼓を叩くのかなと思いました。残念ながら私が滞在した間に太鼓の音は聞こえてきませんでした。今も太鼓の音やお寺の鐘の音とともに時が動く町があったら、それはそれで風情があっていいのになあと思いました。
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太鼓やぐら | 木の根橋 |
(5)たんば黎明館
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柏原を紹介したくなったのは、実はこの建物と出会ったからです。先程紹介した長屋門や陣屋跡の横に、洋風建築がありました。擬洋風建築、日本の大工さんや左官屋さんが、木材や土、石材を使って工夫に工夫を加えて明治時代の進取の気概を見せているこの種の建物は感動的です。 この建物は明治18年(1885)旧氷上高等小学校として建築され、その後女学校だった時期もあったようです。詳しくは下の説明で。そして、今は結婚式場にも使える貸し部屋や、いくつかの飲食店が入る施設として利用されています。 |
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(6)柏原町役場
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木の根橋のすぐ横に、この建物を見つけました。いい建物です。柏原の町めぐりマップに、今まで紹介したものは掲載されていますが、この建物のことは全くふれられていません。現在も柏原町はこの建物を丹波市柏原支所庁舎として使用しています。私が興味を持って中へ入っていったら、みなさんお仕事中でした。この建物のことを書いたものはないかと言いましたら、資料出してもらえました。 それによりますと、この建物は1935年(昭和10年)建設されました。設計者は内藤克雄という方だそうです。西播磨から丹波まで学校建築などを多く手がけられたようです。ファザード(正面)は建築当時と変更してないそうです。当初は1階は執務室で二階は議場として使用されていました。 私は屋根の換気口が可愛らしくて気に入ったのですが、全体としては寄せ棟造りの木造二階建て。両側に同じ作りのせり出し部分を設けており、それがオシャレです。エントランスだけコンクリート造りというのもおもしろいと思います。資料を待っている間天井を見ましたら蛍光灯の真ん中にオシャレな模様が見えました。写真が不鮮明ですが凝った寄せ木張りの天井に左官仕上げの模様があるようです。二階は漆喰を使った左官仕上げの天井だそうですが、それは見られませんでした。「柏原町史」には「柏原出身有志による『塗壁術』により一段の美観を副えられた」とあるそうです。 先程頂いた資料の最後にこんな文がありました。 「現代では事務所ビルというと、今では消耗品のように扱われることも多い。しかしこの柏原町役場は、大正から昭和初め頃のモダニズムやデモクラシーなど、市民意識が高揚した良き時代の遺産として、町民に大切にされてきた幸せな建築物であった」 いや、その通りです。 |
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